誰でもひとりきりだと
生きてゆけないし、生きてるとは言いがたい。
自分以外の誰かに自分の存在を認めてもらえなければ
それは無いのと等しい。
そうして一番最初に自分の存在を認めてくれるのは母親である。
その後は様様な場面で、様々な人に、
様々は評価を得ながら自分の存在を認めてもらう為の
アピールを繰り返しながら人は生き続けてゆく。
よく「誰とも接触をしたくなし、誰からの評価も必要ない。」
そういった発言をする人がいるがコレは
「誰も自分を傷つけないなら接触したい。」
「自分を満足させてくれる評価を与えてくれる人だけ必要。」
正直なところはこうなんじゃないだろうか。
それと似たようなのが「いい人」
これも、ちょっと切り口を変えれば
「自分にとって都合のいい人」
そういう意味が多分に含まれている。
さて、誰もがひとりでは生きてゆけないとなると
必ず誰かと一緒に生きてゆくことになる。
ある時は友達だったり、ある時は家族だったり、
ある時は仕事の仲間だったりする。
その時に無条件で自分の事を受け入れて、
どんな些細な事でも評価してくれるのは
基本的には母親だけだろう。
それ以外の場合には、その時に見合った成果や
結果を導く為の過程、努力の跡が見えなければ
誰からも評価してもらえない。
しかも、厳しい事に努力が大切だと通用するのは
せいぜい小学生まででだ。
確かに努力なしでは物事は運ばないが
そこには結果、もっと言えば成功につながっていなければ
努力は努力としてさえも評価されない。
「自分なりにやってます。」
こんな発言をよく耳にする。
「自分なりに」よく恥ずかし気もなくこんな台詞が
口からでるものだと思う。
自分なりにやっていれば十分だと言わんばかりで
バカ丸出しというか愚かで可哀想にさえなってくる。
自分の主張をする前に、
自分がしてきた事が通用しない現実、
密度の無さ、量の足りなさ、それを認識できれば
こんな間抜けな台詞は出てはこないはずだ。
しかし、この愚かな台詞を度々聞かされると言う事は
世の中に馬鹿が多すぎるという悲しい現実を突きつけられる。
それに、物事はどんな事であれ
「やって、やり過ぎ。」などと言う事はない。
追求すれば、そこからまた先の未知の部分が見えてくるし
終わりなど存在しないものだ。
これから何かをやろうとしてる人がいたら
ひとつ覚えておいて欲しい。
やるか、やらないかを決めるのは自分自身だ。
しかし、やっていいのか、ダメなのかを決めるは他人だ。
これさえ忘れなければ何を、どうやっていけばいいのか
見失う事は決してない。
この意味が理解出来ないのなら、
脳細胞が死滅するまで、
酸素を吸って二酸化炭素を出してりゃいい。